技術力で滝沢市から新しい未来を創造する 〜炎重工株式会社代表取締役 古澤洋将さん〜

インタビュー

岩手県滝沢市で、現在は屋外環境に特化したロボットの研究開発を行なっている古澤洋将さん。東日本大震災で変わり果てた三陸沿岸の光景を目の当たりにしたのを機に、故郷滝沢市に戻ることを決意。2016年2月、33歳の若さで炎重工株式会社を設立し、劣悪な環境下においても安心して使用できるロボットの開発、実用化を目指している。

幼いころに母親からエジソンの伝記を読み聞かせてもらった少年が、ロボット開発に打ち込むようになったのは必然的な流れだった

「そこに置いてあるエジソンの本、それを5歳か6歳の時に母親に読み聞かせてもらったんですよ」。ロボットの研究開発者であり、会社の社長という、想像していた少し固そうなイメージとは異なり、とても気さくに話し始めた古澤さん。これまでの歩みについて聞いた。

「エジソンという少年はいたずらっ子で、いろいろ実験してみたり、好奇心旺盛な子供だったんですよ。それを知って、結構何でもやっていいんだなって、そんな世界観を持っていました」

父親は公務員のかたわら農家を営んでいた。農機具のメンテナンスは父親がやっていた為、機械いじりは日常の光景で、そんな影響もあって古澤さんも機械いじりが好きな少年だった。

8歳の時には、父親から譲り受けたプログラミング電卓に夢中になる。古澤さんが8歳の頃というと、インターネットもWindowsも無い時代。このプログラミング電卓との出会いが、ものづくりを意識するきっかけにもなった。

「父親のお下がりのプログラミング電卓、ベーシックっていう簡単なプログラミング言語が使えるんです。もともと入っているキャラクターを動かせる簡単なゲームプログラムがあって、説明書を読みながらプログラムを打ち込んで遊んでいました」

故障するたびに同じ機種に買い換え、今では3台目。子供のころから使っているから、すっかり体に馴染んでいて、これがないと仕事にならない、そう話す古澤さん。設計作業の際には、手元で図面を見ながら、さっとこの電卓を取り出して検算するのだとか。

将来はロボットを作ったり、科学者、技術者になりたい

子供のころからNHKの高専ロボコンや学生ロボコンを見るのが好きだったという古澤さん。自分は理系に進むと信じて疑わず、進路について迷ったり、なりたいものについて悩んだということがなかった。

「高校生のころ、大学に進学したらロボットをつきつめたいといった意識はありましたね。高校生の時には部活でセコムロボコンというコンテストにも出ているので」

その時のロボコンのテーマは「自動運転の車椅子ロボット」。パソコンから遠隔操作で動かすものだった。今でこそ車椅子ロボット専門のベンチャー企業が存在するが、それよりも10年以上早く取り組んでいたことになる。しかも高校生の時にだ。

「1年かけて企画書を作成して、その後にもう1年かけて制作したって感じでした、10人くらいのチームで。企画書の段階で審査があって、制作費として100万円の賞金を貰ったんですよ。100万円貰えるって、今でもすごいことだと思います」

そのチームの中における古澤さんのポジションは、リーダー。

「そもそもロボットをやりたいって言い出したのが僕だったので、必然的に僕がリーダーになったわけです。リーダーといっても、自分に得意な事はできたけど、そうでないことはチームのメンバーに頼るところが大きかったかなって思いますね。例えば、僕は今でこそ電気専門ですけど、当時はソフトウェアしかできなかったので、電気系は全て得意な人にお願いしました。100%任せていました」

やがて高校を卒業後、筑波大学工学システム学類に進学。数学、システム、電気、機械、ソフトウェアなど、ロボット開発に求められる広範な分野について学んだ。

一人の人間が持っている時間なんて有限。だから必然的にチームが必要

「ロボット開発って、機械もできなきゃいけない、電気もできなきゃいけない、ソフトウェアもできなきゃいけない、結構広範囲な知識が求められるんです。ソフトウェア開発みたいに、ソフトウェアだけ知っていれば全部作れますっていう世界じゃない。それぞれの得意分野を持った人がいて、最低でも3人から5人くらいの専門分野を持っている人が集まらないと、一つの完成したものができない。そういう世界なんです」

学生時代にチームを組んだメンバーとの絆は今でも大切にしていて、飲みに行ったり、スキーに行ったりするそうだ。先輩後輩で集まるとロボット談義に花が咲くのだとか。「みんなロボットオタクというか、ツーカーの仲ですね(笑)」と嬉しそうに話す古澤さん。所属していたロボットサークルでは、NHK学生ロボコンに出場し、アイデア賞を受賞するなど、実績も残している。

会社って、作れるんだなって思った

「大学では僕よりすごい人なんていくらでもいましたし、情熱的な人もいて、お互いが切磋琢磨する関係でした。学生の頃に会社を作った同級生もいますし、後輩も会社を作って年商数億円とかですし、僕の先生も会社をつくっています。周りの様子を見ていて、僕は影響された方かもしれない」

2007年に筑波大学大学院システム情報工学研究科を卒業後、最初に就職したのは茨城県つくば市に拠点を置くCYBERDYNE株式会社。ここで古澤さんは、医療用ロボットの開発に携わっていた。

「電気担当です。電気と名のつくものは全部僕の担当でした。基盤の回路設計とか、バッテリーやモーターの設計など電気部品の全てです。それらを制御するプログラミングや動作確認も僕の担当でした」

そんな中、2011年の東日本大震災。古澤さんに転機が訪れる。

復興じゃない。創造だと思う

「僕の叔父が漁師さんで、三陸の沿岸に住んでいますけど、震災直後に現地に行って、瓦礫の山とか、見てはいけないものをいっぱい見て、あぁ、これはいかんなって思ったのがきっかけでした」

古澤さんはこの時、新しい技術で新しい何かを作ったほうがいいと考えた。中国の片田舎が急に発展したのが古澤さんにとってのモデルだそうだ。元に戻すイメージの復興ではなくて、新しく作るというイメージ。

「滝沢市に帰郷してロボットを作り始めたのが2013年。会社を辞めるちょっと前から設計を始めていました。最近だと養殖場における警備用途の船舶ロボットに引き合いがありますね。船舶ロボットを走らせて養殖場を見守ってほしいみたいな」

今はテストマーケティング中。自律移動させる為の最も難しい部分の開発は済んでおり、あとは顧客ごとに用途を特化させるアプリケーションの作り込みに取り組んでいて、年内の販売開始を目指している。

自然を知っている大人のほうがいろんな場面で絶対に強い

滝沢市の若い世代に向けて何か伝えたいことはないかを聞いてみた。
「家の中にいて、テレビを見たりパソコンとかスマホをいじったりするよりは、自然のなかで遊んだほうがいいと思います。都会にいる子供と違って、ここは自然が豊かなので、もっと自然に慣れ親しんだらいいんじゃないかなと思いますね。都会の子供にはこんな環境はほとんどないので、せっかくいい環境にいるんだから」

滝沢市で生まれ育って、一度は都会の空気を吸った経験のある古澤さんならではのメッセージ。さらに次のようにも話してくれた。

「世界のトップ層の勉強量って半端じゃないんですよね。勉強している状態が普通の状態なんで。勉強したほうがいい。ペーパーテストのための勉強だけじゃなくて、自分の生きる知恵とかを身に付けるための勉強ですね」

最後に炎重工の社名の由来について尋ねると、大河ドラマの「炎立つ」に由来していることを話してくれた。「炎立つ」と言えば、原作を執筆したのは滝沢市のお隣り、盛岡市在住の小説家 高橋克彦さんの作品だ。奥州平泉が京都に継ぐ人口第2位の巨大都市に発展できたのは、金が採れたことと、もう一つは馬の産地だったことで、一大産業が形成された為なのだそうだ。炎重工の「炎」は、金と馬に取って変わる「技術力」によって、奥州平泉のような活気を生み出したいという、古澤社長の思いが込められている。

岩崎努

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